イタ車教祖の言いたい放題!
QUICK TRADINGのボス、寺島の日記です。

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悲しいできごと 2009!

悲しい知らせ!

2009年12月、今年もそろそろ終わりにさしかかり、1年の締め括りをあれこれ考えていたり、2009年度最後のレースであるIdlersが主催しツインリンク茂木で行われる耐久レースの準備に翻弄されていた時に、突然飛び込んできた悲報!
公私共に、永年お世話になってきたと同時にモータースポーツの良き理解者であり人生の良き先輩でもあった方が闘病生活の末、永眠されたと!!享年68歳


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小関 典幸 通称オヤブンと呼ばせて頂いておりました。その気質と風貌から誰からも「オヤブン」と称され親しまれた、知る人ぞしる方であり、スバルのモータースポーツ部門を今日まで育て上げた立役者と言っても過言ではありません。
1963年に行われた第1回 日本グランプリに大久保 力さんと共にスバル450で挑戦して見事完走し以後、第2回 日本グランプリではクラス2位入賞を果たしました。
1967年から水平対抗エンジンを搭載したスバル1000で耐久レースなどに出場すると共に、モータースポーツの底辺拡大と車の楽しさを共有する事を一般にアピールする目的で1969年に上州オートクラブを設立し、クラブを通じてモータースポーツの育成に力を注ぐと共に自らは積極的にモタースポーツ活動を展開しました。1966年の第8回日本アルペンラリーoyabun-08.jpg
にスバル1000で出場し、総合3位に入賞するのを初め数々のレース&ラリーに出場します、そしてその主戦場を国内から海外シフトして行き1974年にレオーネでバハ1000キロに出場したのを皮切りに、翌年1975年にもバハ1000キロそしてサザンクロスラリーに出場、更に1977年にはレオーネでロンドン~シドニー3万キロラリーに高岡祥郎氏、岡崎宏司氏と共に参戦し見事完走を果たしました。
1979年には現在のスバルモータースポーツの中核であるSTI(スバルテクニカインターナショナル)の前進であるスバルモータースポーツグループ(SMSG)から、レオーネスイングバックでサファリラリーに出場するなど国際的なイベントに挑戦して多くの人々と感動を分かち合ってきたのです。
また1989年には米国アリゾナにおいてスバルを使用しての10万キロ速度記録を参画し自らドライバーとしてこの記録挑戦に立ち向かうなどして、内外を問わず数々のモーターイベントにスバルで積極的に参戦し現在あるスバルのモ-タースポーツメーカーとしてのイメージを築き上げた方なのです。

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お通夜がとり行われる葬儀会場に急遽向かう為、全ての予定をキャンセルして一路、東北自動車道の館林インターを経由して群馬県太田市をめざした。
これまでのお世話になった事や楽しくも厳しかった事など、色々な事を考えながら愛車であるALFA ROMEO GTVを走らせる、定刻の時間に間に合うか車中で気をもんでしまい、ついついアクセルに力が入ってしまい!ふと気ずけば危険領域なスピードが出ていた!東北自動車道は何度となく利用しているルートであるし最近の茂木サーキットで行われるレースには必ずこのルートを使っていたので慣れた道のりではあったのですが、この日は凄く緊張していて何かドライビングに集中できていなかった、おりしもこの季節には珍しく大雨に見舞われ視界も悪く最悪のコンディションでした。まるで天候までが、オヤブンの悲報を悲しんでいるかのように!

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東北自動車道の高速道路から一般道を乗り継ぎ会場を目指す途中、大田の富士重工業が見えてくると、学生時代にスバル1000を駆って大磯ロングビーチや狭山の駐車場で行われていたジムカーナーのイベントに参加した頃の思い出が鮮明によみがえってきました。 この頃にオヤブンと知り合い以後、永きに渡ってご指導頂いてきました。
会場に無事到着してSTIの関係者や昔のレース仲間を探して話を伺おうと思って、何人かの関係者には会えたのですが、みな鎮痛な面持ちで言葉少なく!また、富士重工業の役員など企業関係の方々で会場が混雑していた事もあり祭壇に手を合わせてお別れをするのが精一杯でした。
そんな葬儀の中でやっぱり小関のオヤブンだ!と思わず口にしたのが会場に設けられた生前の活躍を紹介するコーナーがあった事です。レーシングスーツにヘルメットを着装していている姿のディスプレーは、まるで参列者一人一人に”元気だったか、よく来てくれたな”って語りかけているようで!!オヤブンをよく知る者としては、結構辛いものがありました。

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そして会場の入り口にはオヤブンが一番、大切にしていたスバルのラリーカーが雨の中にそっと、たたずんでいました。主のいなくなった車は何となく寂しそうに思えたのは私だけだったでしょうか?
車は普通の考え方でいけば、ただの工業製品、人を乗せて便利に移動する乗り物、そんな定義の物で、それ以上でも、それ以下でもありません。
他方、ただの工業製品である車が、ある時点からその車を所有する者の一部となり、自分のヒストリーとなり、自分の代弁者になり、自分の友達であり、自分の恋人や妻となり、自分の子供と同じ存在になるのです。
何事においても物事を一貫してつらぬいていく事は非常に大変であり、困難や失敗が襲ってきて挫折する事が多いのです。しかし貫き通した者だけが得られる大きな感動と充実感そしてなによりのご褒美は自分のヒストリーを車と共に作る事が出来る喜びでではないでしょうか。正に小関のオヤブンはスバル一筋を貫き通した方でありスバルに人生を捧げたと言っても過言では無いと思います。そして今、永遠の旅立ちをしたこの瞬間から小関ストーリーが永遠に語り継がれていくのです。

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1990年サファリラリーにてマルク・アレンと。
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教祖はスバルとは縁があってその紀元はQuickの創設にまで及ぶのです。
QUICKのスタートは現在の板橋区高島平では無く練馬区の大泉学園にショールームを構えてのスタートでした。
場所は大泉学園通りと関越高速道路が交差する付近の高級住宅地でした!ショップもかなり立派な社屋で当時としては斬新なショップだったのです。
実はこのショップは教祖の友人と二人で構想を練り上げ、実現させた経緯があったのです。
その友人とは学生時代からの遊び仲間であり車大好き人間であり良き友人であり、共通の思考を持てた事がショップを開設する原動力となったのですが、友人と教祖がチョット違っていたのはお互いの車種好みが違ったのです。彼はドイツ車党、特にポルシェが大好き、他方、教祖はイタ車党ABARTH大好き人間でお互いに譲れない一線があったのです。ならば1つの社屋でドイツ車もイタ車も両方やってしまおうと、ショップの中をイタ車コーナーとドイツ車コーナーに分けて設定し、いらっしゃって頂いたお客様には一体感のある演出をすればお互いの良い部分が相互作用でプラスになると考えてスタートしたのです。今で言う共同経営をすればと言う案もあったのですが、それぞれのスポンサーである両親が共同経営だけは絶対にダメという条件を課せられていたので試行錯誤の末にこの折衷案が採用されたのです。(笑い)その友人がスバルとは大変密接な関係があったのです。
元々スバルは富士重工で生産されていますが富士重工業の前進は太平洋戦争で敗戦となった時に占領軍であるGHQにより解体された中島飛行機がその原点なのです。その中島飛行機を創設した人物が中島知久平であり弟と共に兄弟で作り上げた飛行機会社が中島飛行機でした。そしてその父系の一つがスバルの富士重工業なのです。
ショップを一緒に始めた友人はこの中島飛行機の創設者である中島知久平さんの弟の子供である中島清隆氏とスターとしたのです。したがってスバルとは一般的なお付き合いでは無く一歩踏み込んだお付き合いがあったのです。

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スタート直後の工場 
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輸入したX/9後方にポルシェが!
この大泉学園にオープンしたショップには実に色々な人たちが出入していました.
そしていつの日か自分の道を見つけて大いなるチャレンジしていったのです。このころはみんな"クソガキ”だったんです。生意気で世間知らずで、ただ自分の主義主張を言い合って、でも大いなる希望と欲望がありました、そしてその将来の夢を実現すべく熱く語ったのです!!そうしてそれぞれが自分の道を突き進んでいったのです。

小関のオヤブンのように。安らかにお永眠下さい。合掌

【第1部】終了
PS:このテーマは第二部を予定しております。最近は雑用に追われる日々で中々ブログの更新が出来ず、皆様からお叱りを頂戴いしております。頑張っていきたいと思っておりますので応援宜しくお願い致します。

チョットSUBARUな?イタリア車教祖!!


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